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大阪地方裁判所 昭和59年(ワ)434号 判決

原告破産者渡邉寛破産管財人

天野実

被告

日新製鋼株式会社

右代表者代表取締役

阿部譲

右訴訟代理人弁護士

松本正一

森口悦克

主文

被告は、原告に対し、金四二八万九〇七九円及びこれに対する昭和五八年一〇月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを一〇分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金四四〇万〇四三八円及びこれに対する昭和五八年一〇月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  訴外渡邉寛(以下「渡邉」という。)は、昭和五八年一〇月六日大阪地方裁判所に破産の申立をなし、同月一九日同裁判所で破産宣告を受け、同日原告がその破産管財人に選任された。

2  渡邉は、昭和三六年三月から被告に雇用され、昭和五八年九月一五日依頼退職した。

3  渡邉は、右退職により、被告に対し、以下の退職金等の支払請求権を有するに至つた。

(一) 退職金 三九二万一二二二円

(二) 八月分給与 二二万八三一一円

(三) 九月分給与 一五万四五四四円

(四) 共済会脱会餞別金 四万円

(五) 住宅財形貯蓄解約金 五万一二五九円

(六) 従業員預金解約金 五一〇二円

以上合計 四四〇万〇四三八円

よつて、原告は、被告に対し、右退職金等合計四四〇万〇四三八円及びこれに対する九月分給与の支払期日である昭和五八年一〇月二一から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

請求原因事実はすべて認める。

三  抗弁

1  渡邉は、昭和五六年七月二〇日、自己の所属する日新製鋼労働組合(以下「組合」という。)と被告との間で締結された労働協約八五条に基づく住宅財形融資規定(昭和五五年一〇月改正)に則り、元利均等分割償還、被告を退職した場合には残金一括償還等の約定で被告から八七万円を借り入れたほか(資金は被告が年金事業団から借入れ、以下、「被告借入金」という。)三和銀行から二六三万円を借り入れた(以下「三和借入金」という。)。また、同人は、昭和五八年四月二六日、組合の労働金庫運営規定(阪神支部内規)に則り前同様の約定で兵庫労働金庫から二〇〇万円を借り入れた(以下「労金借入金」という。)

2(一)  被告借入金の返済については、「会社は融資金を元利均等償還方法に基づき、次のいずれかの方法を各人の選択によつて定め、毎月の賃金及び賞与より控除のうえ徴収する。」旨規定する住宅財形融資規定に基づき、被告が渡邉の毎月の給与、年二回の賞与から元利返済額を控除して返済を受けるという方法で処理されてきたが、同人の退職に伴い、同人は被告に対し右借入金残金を一括返済する義務を負い、被告は同人に対し右一括返済金の支払請求権を取得した。

(二)  三和借入金の返済については、右住宅財形融資規定一四条一項に基づき、被告が渡邉の毎月の給与、年二回の賞与から元利返済額を控除し、これを同人からの委任に基づき三和銀行に返済するという方法で処理されてきたが、同人の退職に伴い、同人は三和銀行に対し右借入金残金を一括返済する義務を負い、被告は右借入金につき同人から返済の委任を受け、かつ連帯保証をしていた関係から同人に対し右一括返済金の事前求償権(民法四六〇条、六四九条)を取得した。

(三)  労金借入金の返済については、「会社は組合員の毎月の組合費及び組合より申し出のあつた費用で会社が妥当と認めたものを組合員の賃金より控除して一括組合に交付する。」旨規定し、会社が妥当と認めるものとして「組合貸付金返済その他厚生的費用の弁済」を挙げる労働協約一一条に基づき、被告が渡邉の毎月の給与から元利返済額を控除して組合に交付し、これを組合が同人からの委任に基づき兵庫労働金庫に支払うという方法で処理されてきたが、渡邉の退職に伴い、同人は兵庫労働金庫に対し右借入金残金を一括返済する義務を負い、被告は右労働協約一一条に基づき同人の賃金から右一括返済金を控除して組合に交付する義務が生ずる関係から同人に対し右一括返済金の求償権を取得した。

3  ところで、渡邉は、昭和五八年四月ころから急に年次有給休暇取得日数が増大しはじめ、同年八月にはその取得率がピークに達していたところ、同年九月七日に至り、上司である被告大阪工場業務課の佐々木課長、松隈係長を呼び出し、同人らに対し、「被告を退職したい。」旨の意思を表明するとともに「住宅融資借入金や労働金庫からの借入金が残つているが、多分退職金、給与などで一切精算できると思う。被告に一任するのでよろしく処理されたい。」旨要請してきたうえ、同月一四日には、右松隈係長及び被告大阪工場業務課の大山労務係に対し、退職希望日を翌一五日とする退職願とともに「今般私儀退職に伴い会社債務(住宅融資ローン残高)及び労働金庫債務の弁済の為、退職金給与等の自己債権一切を会社に一任することに異存ありません。」と記載のある委任状(乙第五号証)を提出し、被告借入金、三和借入金、労金借入金の残債務を一括返済するため、自己の退職金、給与等から被告が右一括返済金を控除ないし相殺することに異存がない旨の意思表示をした。

4  そこで、被告は、渡邉の退職日を同年九月一五日と取扱つたうえ、同月二〇日(八月分給与支給日)、同人の退職金三九二万一二二一円及び八月分給与二二万八三一一円を計上し、即日これから被告借入金の一括返済金六九万六七九一円を控除するとともに三和借入金の一括返済金二二九万五一三四円を控除して三和銀行に返済し、同月二二日には労金借入金の一括返済金一二九万七一五四円を控除して組合に交付し、組合がこれを兵庫労働金庫に返済した。なお、右労金借入金の一括返済金の控除に不足した額は渡邉の共済会脱会餞別金四万円及び九月分給与の一部九万九五四六円を先払いとして計上した。そして、被告は、渡邉の右八月分給与に本来同人に対し支給されるべきでない同年一〇月以降六か月分の通勤費補助金九万四八〇〇円が計上されていたため、同年一〇月二〇日(九月分給与支給日)に同人の九月分給与残金五万四九九八円及び従業員預金解約金五一〇二円を、同月三一日に同人の住宅財形貯蓄解約金五万一二五九円を各計上し、同年一一月一日にこれから右過払通勤費補助金を控除し、その残金一万六五五九円を同人に対し同月一〇日送金して支払つた。

5(一)  以上のとおり、被告が行つた被告借入金、三和借入金、労金借入金の精算処理は、渡邉の退職時における全く自由な同意、了承のもとに同人の被告に対する退職金、給与等の支払請求権と被告の同人に対する右各借入金の一括返済金の支払請求権ないし求償権とを相殺(合意相殺)したものであるから、労働基準法(以下「労基法」という。)二四条一項本文に定める賃金全額払いの原則に違反するものではなく適法有効である。

(二)  しかも、被告は、従業員が退職によつて住宅財形融資規定に基づく借入金、労働金庫運営規定に基づく借入金の残債務を一括返済しなければならない場合には、それぞれ前記住宅財形融資規定一四条一項、労働協約一一条に基づき、右従業員の退職金、賃金から右一括返済金を控除しうるものである。もつとも、右各規定自体からは退職金を右控除の対象としうるか必ずしも明らかでないが、被告においては、従来から右各規定が控除の対象として定める「賃金」に退職金も含まれるものとして労使間で解釈運用してきている。したがつて、被告が行つた被告借入金、三和借入金、労金借入金の精算処理は、右各規定に基づく控除にも該当するから、賃金全額払いの原則に何ら違反するものではない。

(三)  また、被告が行つた通勤費補助金の精算処理も、過払いのあつた時期と精算調整のための実を失なわない程度に合理的に接着した時期における精算調整のための控除であるから当然許されるべきものであつて、賃金全額払いの原則に違反するものではない。

(四)  更に、右合意相殺ないし控除の対象となつた渡邉の退職金等のうち、共済会脱会餞別金、従業員預金解約金、住宅財形貯蓄解約金については、少なくとも労基法上の賃金とは言い難いから賃金全額払いの原則の制約を受けるものではない。

四  抗弁に対する認否及び主張

1  抗弁1及び2の事実は不知。

2  同3の事実中、被告主張のとおりの文面の委任状(乙第五号証)が渡邉から被告に提出されていることは認めるが、その余の事実は不知。

3  同4の事実中、被告から渡邉に対し一万六五五九円が支払われたことは認めるが、その余の事実は不知。

4  同5(一)の主張は争う。同(二)の事実は否認し主張は争う。住宅財形融資規定一四条一項、労働協約一一条には控除の対象として退職金が明示されていないから、被告主張のような退職金からの一括返済金の控除は認められないというべきである。同(三)の主張は争う。過払賃金を翌月以降の賃金から控除することは、賃金全額払いの原則に違反するというべきである。同(四)の主張は争う。但し、共済会脱会餞別金、従業員預金解約金、住宅財形貯蓄解約金が労基法上の賃金ではないことは認める。

5  渡邉は、乙第五号証の委任状によつて、自己が被告から受領すべき退職金、給与等を被告借入金、三和借入金、労金借入金の残債務の弁済に充てるよう被告に委託したものであり、被告が右委託に基づき同人の退職金、給与等をもつて三和銀行及び兵庫労働金庫に対しそれぞれ借入金の残債務を弁済した処理は、その実態において労働者から賃金債権を譲り受けた者に対し賃金を支払つた場合と異なるところがない。そして、賃金債権の譲受人に対する賃金の支払いは労基法二四条本文に定める賃金直接払いの原則に違反し許されないとされているから(最高裁判所昭和四三年三月一二日判決)、被告の行つた右三和借入金労金借入金の精算処理も右賃金直接払いの原則に違反し許されないものというべきである。

6  また、渡邉が乙第五号証の委任状によつてなした意思表示が、被告主張のように同人の被告に対する退職金、給与等の支払請求権と被告の同人に対する被告借入金、三和借入金、労金借入金の一括返済金の支払請求権ないし求償権とを合意相殺する旨の意思表示であつたとしても、同人は、右意思表示をなした当時、サラ金業者等からの多大な債務の返済に追われて被告を退職せざるを得ない状況にあつたのであるから、右意思表示は到底その完全な自由意思に基づいてなされたものではない。したがつて、右合意相殺は、労基法二四条一項本文に定める賃金全額払いの原則に違反するものというべきである。

五  再抗弁

1  渡邉が乙第五号証の委任状でなした意思表示は、自己が被告から受領すべき退職金、給与等をもつて被告借入金、三和借入金、労金借入金の残債務を返済するよう被告に委託したものであり、同人は、右返済委託の意思表示をなした当時、これによつて他の破産債権者を害することを知つていたものである。

2  また、仮に渡邉の乙第五号証の委任状による意思表示が被告主張のように同人の被告に対する退職金、給与等の支払請求権と被告の同人に対する被告借入金、三和借入金、労金借入金の一括返済金の支払請求権ないし求償権との合意相殺の意思表示であり、且つそれが同人の完全に自由な意思表示に基づくものであつたとしても、同人は、右合意相殺の意思表示をなした当時、これによつて他の破産債権者を害することを知つていたものである。

3  そこで、原告は、破産法七二条一号により、渡邉が乙第五号の委任状でなした右返済委託ないし合意相殺の意思表示を否認する。

六  再抗弁に対する認否及び主張いずれも否認する。

破産法上、破産債権者のする相殺権の行使については、同法一〇四条の制限に服するのみであつて、同法七二条各号の否認の対象とはならないものといわなければならない。そして、破産宣告前の合意相殺についても、右相殺制限の規定に反しない限り、右相殺権の行使と同視し、これを有効と解するのが相当であるところ、本件における渡邉と被告との合意相殺は何ら右相殺制限に牴触するところはないのであるから、完全に有効であり、否認の対象とならない。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因事実は当事者間に争いがない。

二そこで抗弁について判断する。

1  右争いのない事実に〈証拠〉を総合すると、以下の事実が認められ、前掲〈証拠〉中、右認定に反する部分は、前掲各証拠と対比してたやすく措信することができず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(一)  渡邉は、昭和三六年三月被告に入社し、昭和五八年九月一五日被告を退職した当時は、被告阪神製造所神崎工場の業務課に所属し、総務、庶務を担当していた。また、渡邉は、被告在職中、組合員として組合阪神支部に所属していた。

(二)  渡邉は、昭和四九年一〇月、被告が当時実施していた住宅資金貸付制度を利用して、被告から一五〇万円及び四〇〇万円を借り入れ、その元利金を分割返済してきたが、その後被告において住宅財形貯蓄制度が導入されたのに伴い、右借入金も新たな融資制度に基づき借り替えられることとなつた。その結果、渡邉は、昭和五六年七月二〇日、組合と被告との間で締結された労働協約八五条に基づく住宅財形融資規定(昭和五五年一〇月改正)に則り、元利均等分割償還、被告を退職した場合には残金一括償還等の約定で八七万円を借り入れたほか(資金は被告が年金事業団から借入れ)三和銀行から二六三万円を借り入れた。また、渡邉は、昭和五八年四月二六日、組合の労働金庫運営規定(阪神支部内規)に則り、前同様の約定で兵庫労働金庫から二〇〇万円を借り入れた。

(三)  右各借入金のうち、被告借入金の返済については、「会社は融資金を元利均等償還方法に基づき、毎月の賃金および賞与より控除のうえ徴収する。」旨規定する住宅財形融資規定一四条一項に基づき、被告が渡邉の毎月の給与及び年二回の賞与から所定の元利均等分割返済額を控除するという方法で処理されてきた。

また、三和借入金の返済については、右条項及び被告と三和銀行間の住宅財形融資制度に関する協定書一〇条に「被告が従業員の委任に基づき償還元利金を償還期日までに三和銀行の被告名義の銀行口座に入金し、三和銀行がこれを引落して償還金の支払に充当する。」旨の定めが、渡邉と三和銀行間の三和ローン契約書に支払方法として「借入金の返済及び利息、損害金の支払については、その債務完済まで被告を代理人とし、右代理人名義の返済預金口座から元利金、損害金を引落しのうえ、右債務の弁済に充当する。」旨の定めがなされていることに基づき、被告が渡邊の毎月の給与及び年二回の賞与から所定の元利均等分割返済額を控除したうえ右控除額を三和銀行の被告名義の預金口座に振り込んで支払うという方法で処理されてきた(なお、右住宅財形融資制度に関する協定書一一条には「被告は三和銀行からの融資により従業員が負担する債務につき連帯保証する。」旨の定めがなされている。)。

また、労金借入金の返済については、「会社は組合員の毎月の組合費及び組合より申し出のあつた費用で会社が妥当と認めたものを組合員の賃金より控除して一括組合に交付する。」旨規定し、会社が妥当と認めたものとして「組合貸付金返済その他厚生的費用の弁済」を挙げる労働協約一一条及び渡邉と兵庫労働金庫間の金円借用証書第八条に「借用金額の元利金の返済は、債務者が勤務先から受領すべき給料、賃金、諸給付金および退職手当中より所要額を受領し、貴金庫に払込むいつさいの件を債務者か所属する労働組合の代表者に委任する。」旨の定めがなされていることに基づき、被告が渡邉の毎月の給与から所定の元利均等分割返済額を控除したうえ右控除額を組合に交付し、これを組合が兵庫労働金庫に支払うという方法で処理されてきた。

(四)  ところで、渡邉は、昭和四九年ころから同僚二名と相互に保証人となつて交際費等の出費に充てるため、いわゆるサラ金業者から借財を始めたが、次第にその金額が増えて返済に追われるようになつたうえ、昭和五四年ころから昭和五五年ころにかけて右同僚が相次いで行方不明となり、同人らの負債も返済しなければならなくなつたため、知人から昭和五五年九月に約一一〇〇万円、昭和五六年一二月から昭和五七年一月にかけ合計一四〇〇万円をそれぞれ借り受け右同僚らの負債の支払等に充てそれまでの負債を大部分整理したものの、一部負債が残り、その利息の支払及び交際費等の出費に充てるため、再びサラ金業者から借入れが増大し、その借入金の利息の支払のため新たにサラ金業者から借財するなどの悪循環に陥り、昭和五八年九月ころには総額七〇〇〇万円余り(同年一〇月六日の破産申立時には総額八七九〇万二一〇〇円とされた。)の負債の返済に追われる状態となつていた。

(五)  そのため、渡邉は、昭和五八年七月から被告を欠勤(但し、同年八月は一六日出勤)して金策に努めたが、その目途がつかず破産申立をするしかなかつたことから、同年八月に入つて被告を退職することを決意し、同年九月七日、被告大阪工場業務課の佐々木課長及び松隈係長と会い、同人らに対し、被告を退職したい旨申し出るとともに、前記のとおり退職によつて一括償還義務が生じる被告借入金、三和借入金、労金借入金の残債務を返済しなければ、永年勤めた被告や労金借入金について連帯保証人となつている同僚に迷惑をかけることになるので、右各借入金の残債務だけでも自己の退職金、給与等をもつて返済しておきたいと考え、被告においてその返済手続をとつてくれるよう申し出た。これに対し、被告においては、従業員が退職によつて住宅財形融資規定に基づく借入金、労働金庫運営規定に基づく借入金を一括返済しなければならない場合、従業員は被告から支給される退職金、給与その他の支給金をもつて優先的に返済するものとされていたが、前記元利金の均等分割返済の場合のように被告が従業員の退職金、給与その他の支給金から右各借入金の一括返済に要する金額を控除したうえ、右控除額を被告ほかの融資機関に対する返済に充てる旨定めた書面協定(労基法二四条一項但書)が労使間に結ばれていなかつたため、その間の協議により、被告が個別に退職する従業員から退職金、給与等より右各借入金の一括返済額を控除して被告ほかの融資機関に対する返済に充てることの同意を得るとともに、その返済手続を被告に一任させる取扱いが慣行的に実施されてきていた。そこで、佐々木課長らは、被告の右取扱いを踏まえたうえ、渡邉の右申し出を了承し、被告において渡邉の退職金、給与等をもつて被告借入金、三和借入金、労金借入金の残債務を返済する一切の手続をとる旨約束した。そして、同月一四日、松隈係長と被告大阪工場業務課の大山労務係が再び渡邉と会い、渡邉から翌一五日を退職希望日とする退職願を受理するとともに、渡邉が自らの意思により自己の退職金、給与等をもつて被告借入金、三和借入金、労金借入金を一括返済するための手続を被告に一任するものであることを書面上明らかにしておくため、渡邉に対し、「今般私儀退職に伴い会社債務(住宅融資ローン残高)及び労働金庫債務の弁済の為、退職金、給与等の自己債権一切を会社に一任することに異存ありません。」との文面の委任状の作成署名を求めたところ、渡邉はこれに異議なく応じ、渡邉の作成署名にかかる委任状(乙第五号証)が被告に提出された(右委任状の文面、提出の点は当事者間に争いがない。)

(六)  そこで、被告は、渡邉の退職日を昭和五八年九月一五日と取扱つたうえ、同月二〇日(八月分給与支給日)、渡邉の退職金三九二万一二二一円及び八月分給与二二万八三一一円を計上し、即日これから被告借入金の一括返済額六九万六七九一円を控除するとともに、三和借入金の一括返済額二二九万五一三四円を控除したうえ、右控除額を三和銀行の被告名義の預金口座に振り込んで支払い、同月二二日には労金借入金の一括返済額一二九万七一五四円を控除したうえ、右控除額を組合に交付し、これを組合が兵庫労働金庫に支払つた。なお、右労金借入金の一括返済額の控除に不足した金額は渡邉の共済会脱会餞別金四万円及び九月分給与の一部先払い金九万九五四六円が追加計上された。また、被告は、右八月分給与中に渡邉に対し本来支給すべからざる同年一〇月以降六か月分の通勤費補助金九万四八〇〇円が含まれていたので(その原因は、被告において賃金計算がコンピューター処理されていた関係上、渡邉の退職後八月分給与支給日までの間に簡単に渡邉の賃金計算が変更できなかつたためである。)、同年一〇月二〇日(九月分給与支給日)に渡邉の九月分の給与残金五万四九九八円及び従業員預金解約金五一〇二円を、同月三一日に渡邉の住宅財形貯蓄解約金五万一二五九円を各計上し、同年一一月一日これから右通勤費補助金額を控除したうえその残金一万六五五九円を渡邉に対し同月一〇日送金し、渡邉は妻を通じてこれを受領した(右残金支払いの点は当事者間に争いがない。)。そして、同月下旬ころ、松隈係長が渡邉と会い、渡邉に対し被告が行つた右精算処理の明細書を交付したうえ、事務処理上の必要から退職金計算書、給与等の領収証に署名、押印を求めたが、その際にも渡邉はこれに異議なく応じた。

2  被告借入金、三和借入金、労金借入金の精算処理について

(一) 前記認定事実によると、渡邉は、乙第五号証の委任状によつて、被告に対し、自己の退職金、賃金等をもつて被告借入金、三和借入金、労金借入金の残債務の一括返済を一任すると同時に、被告が右返済のため行う手続一切について異存がない(同意する)旨の意思を表示したものであつて、被告が行つた被告借入金の精算処理は、被告が渡邉の右意思表示に基づき渡邉の退職金ないし退職金及び八月分給与から右借入金の一括返済額を控除(その法的性格は、渡邉の被告に対する右退職金ないし退職金及び八月分給与の支払請求権と被告の渡邉に対する右借入金の一括返済請求権とを対当額で合意相殺したにほかならず、これによつて被告は渡邉の右各債権の支払義務を免れたものと解される。)したものであり、また、三和借入金、労金借入金の精算処理も、被告が渡邉の右意思表示に基づき渡邉の退職金ないし退職金及び八月分給与(労金借入金については更に九月分給与先払金及び共済会脱会餞別金)から右各借入金の一括返済額を控除(その法的性格は、渡邉の被告に対する右退職金、給与等の支払請求権と渡邉から右各借入金の返済を一任(委任ないし準委任)されたことに基づく被告の渡邉に対する返済費用の前払請求権(民法六四九条)とをそれぞれ対当額で合意相殺したにほかならず、これによつて被告は渡邉の右各債権の支払義務を免れたものと解される。)したうえ、渡邉に代つて右控除額を三和銀行に支払い、また組合を通じて兵庫労働金庫に支払つたものということができる。

なお、被告は、右各借入金の精算処理における退職金、給与からの控除は、それぞれ住宅財形融資規定一四条一項、労働協約一一条に基づく控除にも該当する旨主張する。しかしながら、前記認定のとおり、右住宅財形融資規定一四条一項は「会社は融資金を元利均等償還方法に基づき、毎月の賃金および賞与より控除のうえ徴収する。」旨規定しているだけであつて、右規定が融資金の元利均等分割返済額を毎月の賃金及び賞与から控除することを定めたにすぎず、融資金の一括返済額を退職金、賃金から控除することまで定めたものでないことはその文言から明らかである。また、「会社は組合員の毎月の組合費及び組合より申し出のあつた費用で会社が妥当と認めたものを組合員の賃金より控除して一括組合に交付する。」旨規定する右労働協約一一条もその文言上毎月の組合費及びそれに準じる費用の賃金控除を定めたにすぎないものであつて、賃金のみならず退職金から、しかも本件のような労金借入金の一括返済額を無制限に控除することまで許容した趣旨の規定とは解し難い(なお、被告は、右各規定が控除の対象として規定する「賃金」には退職金も含まれるものとして労使間で解釈運用してきた旨主張するが、退職金が労基法上の賃金たる性格を有するとはいつても、後記賃金全額払いの原則の趣旨を考えれば、右原則の例外として労使間の書面協定により退職金からの控除が許容されるためには、その書面協定に控除の対象として退職金が明確かつ具体的に規定されていることが必要というべきであつて、少なくとも賃金控除の問題に関する限り、賃金に退職金も含まれるという安易な拡張解釈は許されないと解するのが相当である。)。したがつて、被告の右主張は採用できない。

(二) しかして、労基法二四条一項本文は、いわゆる賃金全額払いの原則を定めており、賃金の控除を禁止しているが、右原則の趣旨とするところは、使用者により賃金が一方的に控除されることを禁止し、もつて労働者に賃金の全額を受領させ、労働者の経済生活の安定をはかろうとするものであるから、その趣旨に鑑みると、使用者が労働者の同意を得て相殺により賃金を控除することは、それが労働者の完全な自由意思に基づくものである限り、右賃金全額払いの原則によつて禁止されるものではないと解するのが相当である。しかるところ、本件においては、前記のとおり、被告は、渡邉の同意のもとに渡邉の被告に対する退職金、給与等の支払請求権と被告の渡邉に対する被告借入金の一括返済請求権ないし三和借入金及び労金借入金返済のための費用前払請求権とを相殺(控除)したものと解されるところ、前記認定事実から明らかなとおり、渡邉は、昭和五八年九月当時総額七〇〇〇万円余りの負債の返済に追われる状況にあつたけれども、同月七日被告大阪工場の佐々木業務課長らに対し、自己の退職金、賃金等をもつて被告借入金、三和借入金、労金借入金の残債務を返済する手続をとつてくれるよう自発的に申し入れたうえ、同月一四日松隈業務係長らから自らの意思により右返済手続を被告に一任するものであることを書面上明らかにしておくため乙第五号証の委任状の作成を求められた際にもこれに異議なく応じていること、また、同年一一月下旬ころ、右松隈業務係長から右各借入金の精算処理の明細書を受け取り領収証等に署名押印を求められた際にも異議なくこれに応じているのであつて、しかも、渡邉が本件における証人尋問の際にも自己の退職金、給与等をもつて被告が右各借入金の残債務を返済した手続に異論はない旨供述していることを考え合わせると、渡邉の前記同意は完全な自由意思によるものであつたと認めるのが相当である。そうすると、被告が右同意のもとに行つた前記相殺(控除)に基づく右各借入金の精算処理は、賃金全額払いの原則に違反せず有効というべきである(なお、右労金借入金の精算処理における控除の対象となつた共済会脱会餞別金が労基法上の賃金に該当しないことは当事者間に争いがないから、これを右控除の対象としたことが賃金全額払いの原則に違反しないことは勿論である。)。

(三)  これに対し、原告は、被告による三和借入金、労金借入金の精算処理は、その実態において労働者から賃金債権を譲り受けた者に対し賃金を支払つたのと異なるところがないから、労基法二四条一項本文に定める賃金直接払いの原則に違反する旨主張する。しかしながら、前記のとおり、被告による右各借入金の精算処理は、被告が渡邉の同意に基づき渡邉の被告に対する退職金、給与等の支払請求権と被告の渡邉に対する右各借入金の一括返済のための費用前払請求権とをそれぞれ対当額で相殺(控除)したうえ、渡邉に代つて右相殺(控除)額を三和銀行、兵庫労働金庫に支払つたものと解される。そうとすると、渡邉の右退職金、給与等の支払請求権は右相殺(控除)によつて消滅しており、被告は、三和銀行、兵庫労働金庫に対し、渡邉の退職金、給与を支払つたことにはならないと解されるから、被告による右支払は賃金直接払いの原則に違反するものではないというべきである。したがつて、原告の右主張は理由がない。

3  通勤費補助金の精算処理について

前記認定事実によると、被告が行つた通勤費補助金の精算処理(控除)は、実質的には通勤費補助金の過払いを原因として、被告が渡邉に対する右過払通勤費の不当利得返還請求権を自働債権とし、渡邉の被告に対する九月分給与残金、従業員預金解約金、住宅財形貯蓄解約金の支払請求権を受働債権としてその対当額において相殺したにほかならないものというべきところ、右従業員預金解約金、住宅財形貯蓄解約金が労基法上の賃金でないことは当事者間に争いがないから、これを右相殺(控除)に供したことは何ら賃金全額払いの原則に違反するものではない。問題は、右九月給与残金を右相殺(控除)に供したことが右賃金全額払いの原則に違反するか否かである。

しかるところ、前記賃金全額払いの原則の趣旨に鑑みると、使用者から労働者に対して支払われる賃金に過払いがあつた場合、これをその後に支払われる賃金から相殺により控除することは、それが過払いのあつた時期と賃金精算調整の実を失わない合理的に接着した時期になされ、また、その額が多額にわたらない等、要は労働者の経済生活の安定をおびやかすおそれのない場合である限り、右賃金全額払いの原則に違反するものではないと解するのが相当である。これを本件についてみるに、前記認定事実からすると、被告は、右過払いの通勤費補助金が計上された渡邉の昭和五八年八月分給与の翌月の同年九月分給与から右八月分給与の支給日(同年九月二〇日)より一か月程後の同年一一月一日にこれを控除(相殺)したものであり、その額も五万四九九八円に止まるものであることが明らかである。したがつて、右控除(相殺)は、過払いのあつた時期と賃金の精算調整の実を失わない合理的に接着した時期になされ、かつその額も多額にわたらず、渡邉の経済生活の安定をおびやかすほどのものではなかつたというべきであるから、賃金全額払いの原則に違反せず、適法有効と解するのが相当である。

三進んで再抗弁について判断する。

渡邉が乙第五号証の委任状によつて、被告に対し、自己の退職金、給与等をもつて被告借入金、三和借入金、労金借入金の残債務の一括返済を一任すると同時に、被告が右返済のため行う手続一切について異存がない(同意する)旨の意思表示をなし、被告が右意思表示に基づき渡邉との間で渡邉の被告に対する退職金、八月及び九月分(一部)給与、共済会脱会餞別金の支払請求権と被告の同人に対する被告借入金の一括返済請求権ないし三和借入金、労金借入金の一括返済のための費用前払請求権とをそれぞれ対当額で合意相殺したと解されることは前判示のとおりであるところ、原告は、破産法七二条一号により、渡邉の右意思表示を否認する旨主張する。

そこで検討するに、前記二1の認定事実並びに〈証拠〉によると、渡邉は、前記乙第五号証の委任状による意思表示をなした当時、既に七〇〇〇万円余りの負債をかかえ、資産としては自宅マンションがあるものの被担保債権一四〇〇万円の抵当権が設定されており、それ以外に目ぼしい動産もなく、また、現金も一五〇万円ほどしかなく、右負債を到底返済することは不可能な状態にあつたこと、しかるに、渡邉は、自己の退職金、給与等をもつて被告借入金、三和借入金、労金借入金の残債務だけでも返済したいと考え右意思表示をなしたものと認められ、これらの事実に照らせば、渡邉は、右意思表示をなした当時、これによつて他の一般債権者を害することになることを十分認識していたものと認めるのが相当である。そうだとすると、渡邉の右意思表示は、破産法七二条一号に該当する行為というべきであるから、原告はこれを否認することができるものというべきである。してみると、原告の否認権行使により、被告が渡邉の右意思表示に基づきなした渡邉の被告に対する退職金ないし退職金及び八月給与の支払請求権と被告の渡邉に対する被告借入金の一括返済請求権との合意相殺は効力を失い、渡邉の右債権は右相殺額の範囲で当然復活するものといわなければならず、また、渡邉が右意思表示に基づき被告に対してなした三和借入金、労金借入金の返済委任は効力を失い、右委任に基づき被告が渡邉に対し取得した右各借入金一括返済のための費用前払請求権は消滅することになるから、右請求権と合意相殺された渡邉の退職金、八月及び九月分(一部)給与、共済会脱会餞別金の支払請求権も右各相殺額の範囲で当然復活するものといわなければならない。

なお、被告は、破産宣告前の合意相殺は否認権の対象とならない旨主張するところ、確かに一般的には、破産宣告前に破産者とその債権者との間でなされた合意相殺は、後に破産宣告があつても破産法一〇四条の相殺禁止に触れない限り有効であつて、否認権の対象にはならないものと解される。けだし、右合意相殺について否認権の行使を認めたとしても、その行使の結果は単に相殺前における右当事者間の債権の対立状態を復活させるにすぎないから、その後改めて債権者は自己の債権を自働債権とし、破産者の債権を受働債権として相殺することができ(破産法九六条)、結局右否認権の行使は無意味になると解されるからである。しかしながら、本件における渡邉の被告に対する退職金ないし退職金及び八月分給与の支払請求権と被告の渡邉に対する被告借入金の一括返済請求との合意相殺については、右合意相殺の場合と同日に談ずることはできないものと考えられる。けだし、被告が自己の右債権を自働債権とし、渡邉の右債権を受働債権として一方的に相殺することは、賃金全額払いの原則によつて許されないこと前判示のとおりだからである。そうだとすると、本件の右合意相殺については、否認権を行使することが前同様に無意味だとすることはできないから、破産法一〇四条の相殺禁止に触れない限り否認権の対象になり得るものと解するのが相当であるところ、前記二1の認定事実によると、本件の右合意相殺は、右相殺禁止に触れるところはないものと解される。したがつて、被告の右主張は採用できない。

四以上のとおりとすると、被告は、原告に対し、渡邉の退職金、八月及び九月分(一部)給与、共済会脱会餞別金合計四二八万九〇七九円を支払い、かつ、原告の請求どおり右金員に対する右九月分給与の支払期日の翌日である昭和五八年一〇月二一日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。

よつて、原告の本訴請求は、右の限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条、九二条本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官水谷博之)

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